取引

先日、大坂なおみ選手がローランギャロスでの会見ボイコットやら鬱やらで世間を騒がせていた。私はテニスが好きなので少し微妙な気持ちになったが、大坂選手がいい奴か悪い奴かってことには興味はない。でも、後から鬱病でしたって公表するのは感覚的には理解できない行動だった。授業を欠席するなら風邪引きましたと先生に伝えるなんて、小学生でも分かってる。通常の日本人はそう思ったのではないだろうか。ましてや彼女が身を置いているのは超弩級ビジネスの真っ只中だ。利害関係が発生する場で、そう簡単に容認できない人はたくさんいただろう。では何故こんなことをしたのかといえば、おそらく大坂選手は自身の注目度、影響力の高さからもっと世界が自分の行動を認めてくれて、守ってくれると思ったのだろう。

 

だが、残念ながら彼女が想像するするより多くの人が「ビジネスマン」だったのだ。ローランギャロス前には、テニス選手から手厳しいコメントが並んだ。言葉の強弱はあれど、人前に出ることが精神的にキツい瞬間はある、でも我々選手は人前に出ることで稼いでいる、という内容がほとんどだった。一般人からはより直接的で、あなたに大金を払ったスポンサーへの迷惑は考えるべきだ、という各媒体への書き込みも最も多く見られた。言い方は過激かもしれないが、プロスポーツ選手は客寄せパンダとして生計を立てているのであって、決してスポーツを行うことそのもので稼いでいるわけではないことが強調されてしまったように思う。

 

自身の商品化は、それこそまさに元手のないものが資本主義に入り込む手段なのだ。自分のステータスに価値をつけ、スポンサーと折り合いをつけ、お金を獲得する。資産があればそれを起点としてお金を稼げるが、何もないなら提供できる商品は自分自身しかない。普通のサラリーマンだって、自分という労働者としての価値をアピールして雇ってもらったり、昇給してもらったりするのだ。

 

自身を極限まで商品化したのがプロスポーツ選手なのだ。自身の価値を成績という形でスポンサーと折り合いをつけ活動資金を獲得する。スポンサーはどういう人にお金を出すかと言えば目立つ人だ。例えばかつての史上最高のNo.1テニス選手のフェデラーは、テニスプレイヤーとしての実力は流石に陰りが見えてるがそれでもかなりの稼ぎがあるのは想像できる。これはフェデラーが単に強いテニスプレイヤーという以上の付加価値を備えた人間になったということだ。かつては強いテニスプレイヤーという商品しか持っていなかったが、今や歴史的な人物という商品を携えているということだ。しかもヨーロッパ人であるというのもポイントだろう。

 

さて、翻って大坂なおみ選手はどうだろうか。日本的には、日本人選手としての初グランドスラム制覇ということで揺らぎない価値を獲得した。だが世界的に見ると、まだまだポストセレナウィリアムズといったところだろう。つまり、テニス選手としての伸びしろが期待されており、テニスをしていないと価値が落ちてしまう存在なのだ。まだ代わりが効く存在なのだ。そういった状況でプロテニスがプロスポーツとして発展してきた背景や体制を破壊し、無視するような行動は好ましく思われないだろう。

 

もちろん、鬱病でしたとなれば彼女が休養をとることに口を挟むものはいないだろう。ただこれは弱い立場の存在を責め立ててはいけないという道徳、同情に由来することなのだ。試合に出なくても大切にされるのは、渋川剛気くらいなのだ。

ウマ娘という波

前にウマ娘がなんであそこまでスタートダッシュを決めれたのか分からないなぁという文章を書いた。

当時は人気が凄まじく史上最高のソーシャルゲームだ!という声も強く、こんなに見られる可能性が低いところであったとしても、悪いところなんてとても書けなかった。気持ち的に。

 

当時から正直な感想は、スタートダッシュが異様なだけで運営次第では良ゲー程度の枠だろうなぁで一貫している。FGOから2馬身くらい後ろという印象。

 

理由はいくつかあるのだが、一番の理由はゲームとして何一つ新しくないということ。新しいものを作っている部分が少ないため、新しいものを期待しにくい体制であることが予想されてしまう。それが形としてあらわれたのは、最初のキャラ追加のとき。なんとあろうことか初期キャラの衣装違いだった。延期を挟んで何年も開発にかけて、元ネタありきでこれしかキャラ作れてないの?と感じる。開発が大変なんて消費者には関係ないのである。

 

ゲームとしての飽きも激しい。スキルの強弱がはっきりしすぎていて、誰を育ててもそんなに違いが生まれない。特に無課金微課金だと遊びを入れる余裕がない程度には育成基準が高い。そういう層は遊びが許されず飽きるし、重課金層は編成が固まるため飽きが生じる。育成以外はプレイエリアの外であるため、遊びがないのだ。

 

違う馬であっても、同じ距離を狙うとステータスもスキルも似通ってくるので個性が出せないのも悲しいところ。馬ごとの特徴が最終ステータスにもっと影響を与える仕様で良かったのではないか。この世にサイレンススズカと同じスピードで走れる馬がポンポン存在するか、ということである。

 

スキルのバランス調整も急務だろう。上にも書いたが、強い馬がみんな持ってるスキルが存在するというのはいただけない。クリアするのが目的のゲームならそれでいいのだが、それをもって対戦するゲームなのだから、この点は重要なポイントになる。

 

さて、なぜこのタイミングでこんなこと書くのかと言われれば、最初の関門、対人戦イベントが終わったからだ。まさかいきなり個人戦を行うとは思わなかったが。

人気を維持するには、無課金、微課金層に希望を見せておく必要がある。つまり、なんとなく運で勝てないこともないよ、という状況を作るのが一番いいからだ。適度に勝たせ、課金を促すということ。

対人戦イベントはまさにこのために存在している。さぁ果たしてそれは上手く機能したのか。結論はもう少し待つべきだろう。

 

 

正誤判定

最近社会全体が何かと差別について敏感になってきている。特に目立つのは、用語としても浸透してきたLGBT問題だが、男女格差なんかは差別問題への意識が低いと言われる日本でも長年取り沙汰されてきた。今更誤った差別を受けてしまっている理由についてどうこう言うつもりはない。疑問は「どうして日本人は差別問題への意識が低いのか」ということである。

 

恥ずかしい話ではあるが、私自身が差別をしているかどうかとは関係なく、自分の中での重要度はそんなに高くない。おそらくほとんどの人がそう思っているから、意識が低いということになっているのだろう。

 

大きいのはやはり「個」を見定めにくい国民性なのではないだろうか。農耕民族であった日本人は、周りと協調して生きていくのが賢い手段だと刷り込まれているとよく聞く。かつては一人で農業など不可能だったからだ。各人に一定の役割があり、リーダーの指揮にしっかり従う。正しいかどうかはともかく、これが美徳だと思っている。つまり、集団として機能していることが美しいのだ。

 

これはマイノリティにとっては大問題だ。なぜならいなくても集団は動いてしまうから。社会どころか一般企業ですら、誰か一人欠けたら崩壊するほどやわな構造をしていない。構造から吐き出されてしまった人がいても、集団が機能しているのだからマジョリティにとっては元のまま、美しいまま。つまり、マイノリティへの無意識が一番の障害になっていると言っていい。

 

つまり、差別問題への意識を高めるに「こんな差別があった!ひどい!」と叫ぶのはあまり意味がない。多少の同情があって終わりだ。

 

自分はあらゆる他人と違う存在で、個として存在していて、それはあらゆる個に対して同等であるということを意識させる外ないと思っている。

 

思っているだけ。正しいかどうかなんて関係ないのです。

 

 

 

 

ウマ娘の春となぜ

ウマ娘プリティーダービーがものすごく流行っている。それはそれはすごい勢いだ。私はリリースされたソシャゲはとりあえず触ってみる派の人間。操作感は結構いいしキャラが可愛いパワプロと見なせばかなり長続きするゲームになるだろうなと思った。ところがどっこい、その好評ぶりは歴史的なもので、やってないオタクはいないんじゃないかってくらい爆発していた。つい先程、一月の売上が昨年の白猫プロジェクト一年の売上を大きく上回るなんてツイートも見た。ちょっと下品な比較をするなぁと思ったが、本当に皆さんハマっている。私もそれなりに楽しんでプレイしている。ストーリーは一文も読んだことがないが、この手の育成は大好き。可愛い女の子のパワプロだもの。頑張れ僕のサイレンススズカ

 

ところで、どうしてウマ娘プリティーダービーはここまでヒットしたのだろうか。これは結構難しい問題なのではないだろうか。ということで、爆発しそうな要素を考えてみた。

 

 

要素1 元ネタ(?)が人気

非常に素直に受け入れられる要素である。これで大ヒットした代表格といえば間違いなくFate Grand Orderだろう。Fateシリーズの特徴である、平行世界という名のご都合主義を活かしきって背景の濃いキャラクターを増産、人気No.1候補の一つだろう。FGOもリリース当初から多くのプレイヤーを獲得している。

では、ウマ娘はどうだろうか。当初の計画とは食い違っているという話も聞いたが、ともかく現実としてアニメが先にありゲームがリリースされた。アニメの人気はいかほどだったろうかと思い返してみると、こんなことになるほど人気があったとは言えないだろう。少なくとも特別に話題に上がったというほどではない。ヒットの要素としてはあんまり目立たないように思う。

 

 

要素2 ゲームとして優秀

ソシャゲもゲームなのだから、これも受け入れやすい。もちろんソシャゲとしてのゲーム性。

 

いいところ

実際プレイすれば分かるが、タップに対する反応は良好、エリアも大きくとられており操作は快適。数あるソシャゲの中でもトップクラス。

育成とレースを繰り返すことになるが、ストーリーやレースはスキップ可能で、周回プレイへの配慮はバッチリ。

可愛い女の子がチョロチョロ動くのもいい。もっと可愛くなる。

育成は安心と信頼のパワプロ方式。少し単調な感は否めないが周回前提の育成ゲームとしては理想的と言える。

 

わるいところ

育成キャラとサポートキャラ、それぞれのステータス確認画面がホーム画面から少し時間がかかる。

スキルの発動条件が分かりにくい。特定の距離や作戦でのみ発動するスキルがあるのだが、これがスキル長押しして詳細を表示しないと確認できない。

自分の手から離れ過ぎている。育成はパワプロシステムそのもの。自分で練習を決め、スキルを獲得し、レースに出るが基本。もちろんラッキーイベントやガッカリイベントもあり、結構運に左右される。ここまではいいのだが、レースではプレイヤーは何もできない。馬主のような感覚になれていいのかもしれないが、自分でコントロールできる部分が少ないように感じてしまう。

育成する理由が希薄。同様のシステムのパワプロでは、理想の選手9人を揃えて最強チームを作る!というわかりやすい目標があるが、ウマ娘ではチームを作るということに対して動機付けが難しい。システムとしては各適正距離の馬を作りなさいということになっているが、感覚の問題である。

競馬ノー知識だと分かりにくい。当然各所に競馬用語が出てくるのだが、これがいまいちピンとこないときがある。特にスキルの説明文。直線やコーナーはどれくらい重きを置くものなのか、その重要度はレースの距離によって違うのか、先行や差しはどのあたりで仕掛けるものなのか、そもそも平坦に見える競馬場に上り坂下り坂なんてあったのか、ではどのコースに坂があるのか、など。

 

わるいところが多く見えるが、慣れてしまえば解消されるものが3つ、一緒にやる仲間がいれば気にならないものが1つ、なので実際には大きなストレスはないと思われる。唯一残る「自分の手から離れすぎている」だが、これは同系統の先発人気ソシャゲ、アイドルマスターシャイニーカラーズとの差別化かなと考えたが、これがまたゲーム性とは別のところで面白いことになっている。これを狙ってやってたら天才。

総じていいゲームなのは間違いないが、信じられない!死ぬほど神ゲーやん!というほどではない。最終的に売れることは想定できるが、ここまでのスタートダッシュを切る理由になるほどとは思えない。

 

 

要素3 Cygames

意外と侮れない要素。開発元に信頼があるというのはいいことである。Cygamesからリリースされたゲームを見ると、アイドルマスターシンデレラガール、グランブルーファンタジー、Shadowverse、プリンセスコネクト Re:Diveなど、ヒット作を次々に出している。いまいち波に乗り切りかなった作品もあるが、どの作品もリリース当初はある程度の話題性があったことを覚えている。触るキッカケを作りやすいという意味ではこれ以上ないファクター。

 

 

要素4 レースの演出

このゲームが、プレイヤーが操作するというゲーム性を殺したことによって獲得した要素。同種のパワプロシャニマスと違うところ。それは本当にレースをするということ。それを可視化していることに意味がある。たとえスキップできるとしても、そこに映像が用意されているという事実を知っていればいい。それによって、自分が育成したウマ娘は実際に走ったんだという実感が得られる。レース中にプレイヤーの介入がないことにより、ウマ娘自身が走ったことを感じ、プレイヤーはウマ娘を応援する立場に置かれる。それが自分で育てたウマ娘ならなおのこと愛着が湧く。人を惹きつけるという点において、とても有効な要素だと言える。

 

プレイヤーを適度な時間拘束し手放さないというのがソシャゲの鉄則である以上、育てたキャラに愛着をもたせるというのは大きな要素であると言える。

 

 

要素5 逃げ道がある

ややネガティブだが、これはSNSで拡散するのに大いに役に立つ。女の子が写ってるスクショばっか貼るのはやはり躊躇われるものがある。しかし、そこにちょろっと競馬知識をひけらかす文章を盛り込んでおけばなんとなくキモい感が薄れる。これはメインターゲットのオタクには嬉しい要素だ。SNS上にスクショが貼られるというのは、ソシャゲにおいて一番効果的な広告になる。なにせプレイしてる人間がいるよと言っているのだから。これを気軽にやってもらえるのは非常にデカイ。もはや大人気でみんなプレイしてるので、臆する必要はなくなったが、最初動では大いに役立ったと思う。実際そういう感じでツイートしてる人見た。

 

 

今思いついた順にヒットした理由、その要素について書き連ねたが、やはり大きいのは4番かなと思う。頑張って育ててレースに勝ってきたキャラには愛着が湧くものだ。スタートダッシュのみに関しては5番が効いてると思う。

 

ここまで売れたウマ娘プリティーダービーの最初の勝負は、ギルド戦追加のタイミングだろう。現在いまいち意義を見い出せないサークルシステムは、ギルド戦追加の布石だと思う。ゲームの雰囲気が壊れやすい要素だが、Cygamesは追加せずにはいられないと思う。どれだけうまくやるかが鍵になると思う。

 

色々と言ってきたが、私もなかなかうまくいかなかったテイエムオペラオーが最後まで勝てたときは嬉しかったし、それなりに愛着が湧いた。こいつを使ってやりたいと思った。しっかり術中にハマっている。ウマ娘たーのしー!今日から誰育てよっかなー。

 

 

 

 

でもハルウララを勝たせるのは、元ネタのアイデンティティを奪ってしまうようで複雑です。

ドーン

ちょっと前にキングコング西野について書いたけど、最近再びちょこちょこニュースで見るようになった。どうやら吉本を退社するらしい。近頃の芸能事務所はどこも大変だそうだなぁと思いました。

 

ところでコメント欄を見るととにかく西野は嫌われている。気持ちは分かる。正直、彼はなんというか胡散臭い奴を絵に描いたような風体で胡散臭い奴が言いそうな気持ちが良くなりそうなことを言うから。だとは思わない。多分、極めて楽そうに金を稼いでいるように見えるから。ここでの「楽」の意味は人の心の隙を狙った詐欺、もしくは詐欺まがいのこと。だから皆自由になんの後ろめたさもなく彼を叩くことができて、実際に叩いている。

 

しかし、そもそも商売というのは人間の隙をつくことでしか成立していないような気がしませんか。食品産業は人間の体の構造の隙を狙っている。食わないと死ぬやろ?じゃあ金出せやと言ってきている。その上でせっかくなら美味しい=気分が良くなるもので勝負をしている。件の西野なんかよりものすごく悪どいことしてませんか?道徳的正しさを実践するなら、食料を持っていない人に無償で配ってあげるべきじゃないですか。

 

今一度常識を脇に置いて、起こっている現象を見つめてみてはいかがでしょうか。案外いろんな発見ができて世界が違って見えたりもします。ただ、今まで全く関係なかったもの同士を結びつける思考が必要ですが。

自分がよくわからない

自分は元々そこまでアニメはもとよりドラマも全然見る人間ではありませんでした。しかし、最近長い時間を潰したくなるタイミングが増えたため、アニメ12話ってめっちゃ都合いいじゃん!と思っていろいろ見始めてみたわけです。

 

その中で自分の好みが大きく2つあることがわかりました。1つは、ちゃんと恋愛に主軸をおいた恋愛モノ。子供の頃、少女漫画をよく読んでいた影響かもしれません。もう一つの好みは、女の子がたくさん出てくるやつ。だって可愛いじゃん。そりゃ好きよ。この2つ合わせたら?なんということでしょう、百合作品が好きな人間の出来上がり。

 

というわけで、有名だった2つを見ました。やがて君になるを漫画、citrusをアニメで見てみました。これがどういうわけか、やがて君になるはダメでcitrusはOKでした。正直自分のことが分からなくなりました。なんでこんな反応になってしまうんだろうかと。よく考えた結果、やがて君になるはちょっと特殊だったのです。

 

そもそも同性同士の恋愛は主に世間体的な困難が付き纏うものです。そこに、相手が同性だけどマジで好きで離れられん!っていうのが加わってドラマチックになる、とかなりシンプルに話が成立するのが同性恋愛ものの強みだと思います。実は身分違いの恋愛にかなり近い構成だと思います。citrusはそういう意味ではどストレートだったと感じましす。

 

やがて君になるは、ヒロイン?がかなり特殊な性癖を持っています。よくよく考えると通常の人間では共感しにくい感覚を持っています。百合という時点でそこそこ重たくなるはずなのに、この設定が上乗せされて胃もたれを起こしたような感覚になったんだと思います。自分にとっては。

 

というところまで考えましたが、実際は他にも理由があるかも分かりません。なんせ絵柄だけで判断したら比べるまでもなく圧倒的にcitrus派なので。

遊び

人はなぜゲームをするのか。

 

コンピュータを使わずトランプやそれに類似したものを使うゲームは、少なくとも現在では旅先でのちょっとした暇潰しだったり、もしくは賭けの対象の場合が多い。複数の人間が存在するときだけ、その機能が成立する。

 

コンピュータを用いたゲームは、一人でゲームをプレイすることを可能にする。これはゲームを行う上で必要なランダム性をコンピュータが代行してくれるためだ。例えばババ抜きの場合、自分に配られる手札のランダム性に加え、自分以外のプレイヤーの手札は「自分が持っているカード+既に捨てられたカード以外のどれか」というランダム性がババ抜きをゲームたらしめている。このランダムをコンピュータが担保することで、ようやく人間は一人で勝つか負けるか分からないババ抜きを成立させることができる。つまりランダム性がゲームのゲーム感を支える軸なのである。

 

であるならば、ガチャに大金を叩いてしまうのはごく自然なのだ。ギャンブル依存的な側面はあるものの、ソーシャルゲームはそもそもゲームとしてのランダム要素をガチャに集約している。良い悪いはおいといてゲームを成立させるためには自然な要素なのだ。

 

だが一方でプレイヤーはこのランダム要素は極端に嫌う傾向が強い。きっと皆思い通りにいかないという状況をゲームで再現されることを嫌っているのだろう。ウケる。