ジャッジ

最近ちょっとした興味でキングコング西野のブログ?をザーッと読んでみた。すごくいいことを書いていた。少し斜に構えてるんだけど、社会をちゃんと見据えてるという何だかよくわからない書きぶりに、特に大学生は感銘を受けるだろうなと思った。

 

多分新卒社会人がある程度上手く行くような行動の指針を案外分かりやすく書いてる。決してそれ向けに書いているわけではないが。だが、よくよく考えてほしい。彼は普通と違って大学に行かず、お笑いという超絶厳しいと言われる世界で全国的な認知を獲得した、超レアリティの高い人間なのだ。はっきり言って今の商売も、作家としての才能の前に知名度とそれを活かして得た金が立っているということを認識する必要がある。

 

では、普通の人間がどうして彼の言葉を自分の人生を変える素晴らしいものと判断することができようか。少なくとも金も知名度も才能もない自分には判断できないので、特に感じるところはない。ブルジョワの戯言に近い感覚しか持たないのだ。

許容

物語では結果が重視される。

 

よくあるのが、周りが引いてしまうような頓珍漢な事をやって、それが後々いい結果を呼ぶ、もしくはそのきっかけとなるというパターンである。それは大概その作品における重要なファクターに影響を与えるため、きっかけとなった頓珍漢な行動は完璧に肯定される。

 

しかし、最近の物語では案外そういう展開が減っているような気がする。そういう常軌を逸したことをするにはそれなりの理由付けをしないといけなくなってきたから。そうしないと、キャラクターを人間として受け入れることが難しい時代になってきたから。それほどまでに、今の日本は教育や情報が行き届き、ぶっ飛んだ人間が生まれにくくなっていて、しかもその実感が本人たちにもあるんだろうと思う。

 

要するに、原作ののび太ジャイアンはもう受け入れられる存在ではなくなってしまったということである。方向性は違えど、どっちもちょっとアレだもんね。

灯台

信仰している宗教はあるだろうか。私にとある宗教を熱心に信仰している友人がいる。非常にメジャーな宗教だ。でもそれを聞いたとき私は、本当に正直に言えば、不気味に感じた。その不気味さの根源は一体何だったのだろうか。

 

大半の宗教において推奨される行動や心のあり方は、よくよく考えれば私が小学生の頃道徳の授業で習ったものに非常に近い。両親に言われてきたことと似通っていたし、私はその教えがいいことだと感じ、これまで基本的には教えを守ってきたつもりだ。今でもその教えは直感的には正しいことだと感じる。大概の人がそう感じると思う。

 

少なくともある程度若い日本人にとって、宗教で推奨されていることは小学校の先生と同じことを推奨している。これが、日本人自身が「自分は特定の宗教を信仰していない」理由ではないだろうか。ならば、特定の宗教を信仰している日本人はなぜ信仰を続けているのか。

 

道徳の授業と宗教の、もう一つの共通点に「褒めてもらえる」という報酬が挙げられる。道徳で教えてもらったことを日常的に実践していれば、先生はできるだけ積極的に褒めてくれる。宗教では、正しく信仰していれば神様から褒めてもらえる。なんだ、全く同じものではないか。

 

しかし、この「お褒め」には大きな違いがある。学校の先生は少し目立つ「いいこと」をしたときや、通知表のコメント欄等でそこそこの頻度で褒めてくれる。一方宗教における「お褒め」は大抵の場合、究極の修行を経た人間が得られるエンドコンテンツ。

 

 こうやって書くと、宗教は簡単に報酬を得られないクソゲーに思える。実際に今そう思ったが、少し考えると一概にそうとは言えない。困難に立ち向かっている状況は、人間にある種の充足感を与える。しかも「困難さ」はあくまで「報酬を得られるかどうか」という点に集約されており、日常に反映される行動は「正しいことを行う」だけ。つまり一般信者に対して宗教が起こす現象は、「正しいことを当たり前に行うだけで充足感が得られる」という非常に効率的なものなのだ。

 

すごい、宗教めっちゃいいじゃん。皆、自分に合った宗教を見つけてみよう!

ネットワーク

急に色々思いつくから、適切に保存して置かなければならない。

 

これは飽くまで自分がたった今単なる思いつきではてなブログとやらに登録して、急にこんなことを書いている理由でしかない。昨今少なくとも一部のカテゴリーの人間にとっては情報の命綱とも言えるツイッターは、十分にこの役割を果たしてくれるし、自分自身もこれを大いに活用していた。しかし、ツイッターはその手軽さとは引き換えに1投稿につき140字という制限が課せられている。

 

この140字は、例えばある製品について宣伝をするには十分な文字数である。その魅力を他者に伝え、購買意欲を掻き立てる役割を果たすことができる。私もその140字に大いに転がされた。何回わけのわからないゲームアプリをダウンロードし、アンインストールしたことか。

 

しかし、日本語を柔軟に使いこなす日本人でも140字で物事を正確に伝えきるのは不可能に近い。自分のようにふと思ったことを書き残す程度で使っていたとしても、当時どういう状況で何を見てそう思ったのか、過去のツイートを見てもまるで思い出すことができない。要するに自分自身にすら伝えきれない。

 

であるならば、他人に何かを伝えたい、と思っている人間の言葉はどうか。説明しきれない大きな主語、述語は無限の解釈を伴い、投稿者本人が意図しないところまで広がってしまう。予期しない場所にまで広がり、まるで興味のなかった人たちの中で様々な肯定、否定が飛び交う。いわゆる炎上というものになってしまう。

 

 

この炎上は、ざっくり言えば有名人であればあるほど起こりやすい。それなら、ただの一般人である私は炎上しないだろうか。おそらくしない。分かりやすい形では間違いなくしない。だから安心して好き勝手にSNSに気軽に書き込む。誰が目にしようがおかまいなし。なぜなら炎上しないから。

 

小学生の頃は、母親の耳に入るのが怖くて下手な発言は全くしていなかったのに。