成功の母は失敗でしかありえない

ここ10年くらい、書店に行くとよく見かけるタイプの本がある。それは、最近上手いこと成功した人の体験談系のものである。もちろん、元々こういった成功者の本は有名企業の社長のものを中心に出版されていたが、最近はさらに目立つようになった。これは、会社的な成功者だけでなく個人事業主として成功した人が増えたからだろうと思う。

 

基本的にいいことだと思う。色んな人の人生や試行錯誤を知るということは、経験を増やすことにほかならないからだ。私のような人間はそれをありがたく頂戴したい。だが、これに感銘を受け、人生の指針とする啓発本のように扱うのは非常に危険だと思う。

 

近年増えたタイプの成功者は、そのベースを構築したとは言い難いのだ。例えば、いま若年層に人気のYouTuberはいい例だと思う。彼らはYouTubeやその他配信サイトに依存したスタイルをとっているにも関わらず、その開発や世間への浸透に関わったとは言い難い。つまり、彼らの成功は偶然YouTubeが成功したことに大きく依存しており、計画性があったというにはあまりに偶然に頼った行動をしているのだ。彼らが常に最善の行動をしていたとしても、YouTubeが消えた途端全てが霧散する可能性がある道のりだったということになる。

 

これは成功物語とするには十分すぎることだが、成功体験とするにはあまりにも根拠に薄い成功ではないだろうか。

フリーレン視聴者反応の謎

今回はいろいろ見てて、葬送のフリーレンそのものではなく、読者視聴者の反応でピンとこないところがあったので記録。

 

アニメから入ったので、話数等はアニメ基準で。

違和感が強烈だったのが、14話で「やっぱりヒンメルはフリーレンのこと好きだったんや!」系のリアクションが多く見られたこと。14話はザイン初めてのシュタフェル喧嘩仲裁、アイゼンのフリーフォール、鏡蓮華の3本立て。確かに、ここで表現として直接的に恋愛に触れたことにはなる。前半でシュタルクとフェルンの喧嘩を未熟な恋愛のようにザインが茶化すのを通して、恋愛を意識しやすくなり流れとしてもグッと持っていかれたなぁと思う。表現としては自分も好きだし、とてもロマンチックだと思う。

 

ただ、ここでヒンメルの気持ちに対して声があがるのは本当に意味が分からない。しかも、だとしたらそれまでのヒンメルの行動を完全に読み違えていることになる。

 

まずスタートの時点で、ヒンメルは50年もの間フリーレンを気にかけていた事実に気付くはずである。再会したときの彼のなんとも言えない表情をどう読み取ったのか。漫画でもアニメでも何かは感じるはずである。君は普通の友達(連絡は取れない)にそんな感情を抱けるというのか。

自身の銅像に関しても(彼のナルシストなところもあるが)、明確にフリーレンのためと発言している。

前話13話で投げキッスにあえなく撃沈するヒンメルも描かれている。これはヒンメルの気持ちを前提にしたコミカルなシーンなのだから、これをどう受け止めたのかも気になる。

その他回想で現れる度に、基本的にはフリーレンの未来を守る行動をしている。あんなに強大な魔法使いに対してである。生きるのにヘルプなど必要ないレベルの存在だ。ヒンメルは当然承知の上で、フリーレンを守ってあげたいのだ。これはフリーレンを女性として見ていなければ発生しないことなのだ。

 

そもそもストーリー自体が、ヒンメルの気持ちがフリーレンの寿命に耐えうるのか、ヒンメルが悩んでしまったところに根差している。確かに何でもかんでも恋愛に繋げるのはどうなの?というのも分かるが、創作ストーリーで男の行動指針に対する大きな動力は恋愛であることが本当に多いのだ(現実でも往々にしてあるが)。そして葬送のフリーレンでは、ヒンメルのそれを確定情報とするために、少なくとも14話までに多くの時間を使っていたはずなのだ。これがいまいち伝わっていないことに驚きが隠せない、ということ。

 

唯一の問題は、この回想は本当に正しいのか、というところだけである。作中には意外と覚えられていない勇者パーティの面々、名を忘れられた英雄、現実とだいぶ異なる英雄譚に大切なものを忘れたフォル爺など、過去の記録、記憶は曖昧ですよ、という味付けもされている。フリーレンの回想は彼女の良いように改変されてはいないか、という疑念を抱かせるには十分なギミックがある。これだけは本当に分からないのでなんとも言えないが。

 

あと、一番なんとも言えないのがフリーレン側からの感情。これは本当に分からん。なんなら本作品で一番最後に明かされる謎かもしれないとすら思う。なぜなら、エルフは人間と比べて感情の起伏が少ないと明言されてしまっているからだ。普通の人間である自分には、想定もできないのであった。

葬送のフリーレン コミックスも読んで

久しぶりに熱中して観てる気がする、葬送のフリーレン。

 

原作漫画の存在も知らなかったけど、アニメを見たらえらいハマってしまい、コミックスも買ったし、サンデーも買ってしまった。先日発売のコミックスがサンデー連載の直前までだったので、現在確認可能なストーリーを追いきれて満足している。

 

さて、先週まで連載されていた過去編を読んで、少し解釈が変わった発言があったのでメモしておきたい。

 

それはハイター、アイゼンの「勇者ヒンメルならそうした」である。

 

これはどちらも、それぞれフェルン、シュタルクを育てたことに関する台詞である。当初は、ヒンメルなら人助けたくさんするよな!ってことだと思っていたし、そのニュアンスがないわけではないと思う。

ただ、過去編でフリーレンはかつての仲間に「旅をしている仲間ができたこと」と「ハイターとアイゼンがいい仕事をしたこと」を伝えていることが引っかかった。これを過去のハイターとアイゼンが知ってしまったことはかなり大きいのではないかと思う。

 

自分は神の視点にいるので簡単に繋がるだけで、実際ヒントとしては拙いかもしれない。しかし、特に作中のハイターは常軌を逸して察しがよく、想像力がある。自身は聖職者のため結婚はしないはずなのだが、そんな自分に魔法使いの子供ができることを想像したりもできるくらい思考が柔軟だ。

 

もし仮に、自分達が未来に弟子や養子のようなものを取ることを予見していたとしたら、「ヒンメルならそうした」は、「ヒンメルならフリーレンの楽しそうな未来のためにそうした」に置き換わってしまうのではないかと思った。

 

特に言及がなければ、従来通りの受け取り方でいいと思うが果たして。

今今更更リコリスリコイル

どうも天邪鬼なもんで、何でか流行っているモノ・コトに対して手を出したくないという気持ちになる。実際は手を出したくてしょうがないのに、いやいや流行ってるもの知らない自分が素敵だという、気持ち悪い感情を優先してしまう。

 

そんなわけで、数ヶ月前よく名前を見たアニメ、リコリスリコイル。少なくとも私が観測する範囲では話題に上がらなくなってきたので、当初の予定通りしっかり手を出してみたのであった。

 

ある意味、よく見る設定なのかもしれない。

・ちょっと一般人には敵わないような強い人を育成している、殺しもようやる組織がある

・その中でもめちゃ優秀だった奴は、組織と噛み合わなくて離反している

・最強ちゃんは心も最強

・関係性の深かった人たちと、一見普通のお店をやっている

とにかく実質この世の誰も敵わない人間が普通の生活をしてるってやつ。

特異なのはこれを女の子達でやってるというだけ。実はそうでもないのだが、メインとしてはこれ。

 

ちょっと話は逸れるけど、最強ちゃんが冴羽リョウとまぁまぁかぶっていると思う。バカ強いけど明るくて普通に街で生活していて街の色んな人と面識がある。メンタルに多少弱点はあるが、滅多なことではそもそも弱点に到達し得ないところなど。

 

さてさて話の始まりは、組織に忠実で昇進したい・成果を上げようとはしている・クソ真面目だが規律違反は平気でする、といった微妙に食い違った設定を持つ問題児が、あまりにも問題児であったため、組織をクビに。ただ完全にクビだとアレだったから、最強ちゃんのところで頑張ってこい的な感じ。

そこで出会った最強戦士との交流で、ちょっとずつ心に変化が現れる~っていう、全体的な展開はよくあるよね~って誰もが思うはずの流れで物語は進んでいく。

最終的にはとんでもなく面倒な敵が出てきたから、組織が(形としては)最強ちゃんに手を貸してもらって万々歳。多少の成長をした問題児ちゃんも活躍してよかったよかったである。

 

高い評価は本物ですごく楽しかったし、全話一気に見れてしまった。

一番良かったのは、鬱陶しくなかったこと。簡単に言えば、5話で生まれる疑問は大概5話の中で解消されるのだ。こいつ怪しいよなってやつはちゃんとストレートに怪しいやつで実は~っていうのがほとんどなかった。

これを12話続けていたので、情報量は意外と多くてその点では一気見はちょっと大変だった。

でもなぜか次の話が気になるのだ。構成が上手かったんだろうと思う。専門的なことは知らない。でも上手かったんだろうとしか考えられない。それくらいのめり込めた。

 

悪いところは、とにかく問題児ちゃんとラストバトルの決着の仕方。

アニメ・マンガの問題児ちゃんって、外から見てる分にはかわいいものだったり、道徳的には本人が正しくて組織が間違ってる、という風に描かれるものだと思う。

だが、この作品の主人公たる問題児ちゃんはガチで問題児。挙げたらキリがないが、とにかく「(特殊部隊に近い性質の)組織の中で這い上がりたい!」と(序盤は)思っている人間のはずなのに、独断で動く、評価されなければ上司に殴り込み。隊長に規律違反を怒られた分、喧嘩で殴り返してスッキリする。

見ていた限りでは、「何かに依存していないとダメ」プラス「自分勝手」という描写の結果なのかなと思った。この微妙な描写のため、主人公2人だけが組織の女の子と比べて可愛くデザインされているのかもしれない。可愛い子がブスに正当に注意されたから、可愛い子がブスをボコボコにする。アニメのブスは敵に見えるから、良い手段かもしれない。

ともかく、問題児ちゃんは気持ちのいい人間ではない。組織の女の子達と比べても特に何かがあったという描写もないので、特に同情するポイントもない。無口・バカすぎる以外で職場にいてほしくないって思ったキャラクターは久しぶりかもしれない。

 

ラストバトルの決着は本当に良くなかった。

最強ちゃんは殺しをしたくないから、組織を抜けたという部分がある。

だから剣心みたいな不殺の人なのだが、結果はともかくどう見てもラスボスを殺しにいってしまっているのだ。見た人は分かるだろう。あれだけ「殺しはダメ!」って言ってた奴が締めのシーンでめっちゃ殺しにいってるのだ。状況は状況だけど、これまでの最強ちゃんの意思はどこへいってしまったの?って思った。不殺は作品内の大きなテーマでもあり、なんとかして殺す以外の方法で決着させる必要があると思った。実は人知れず生きていたので殺していないのだが、彼女や味方の視点ではどうあがいても殺している。何よりこの決着に関して何かを思う描写もなく、しつこく描かれていた不殺というテーマはどこかへ置いてかれてしまった。なんなん?

 

まぁそんな感じで、パッと見はかなり良い、ちょっと考えると「ん?」って思うところが出てくる、いいアニメでした。

不思議なラブライブ!スーパースター!!

前回の記事で虹ヶ咲スクールアイドル同好会について書いたが、当然のように現在放送中のラブライブ新シリーズ「ラブライブ!スーパースター!!」も楽しく視聴している。こちらはおそらくこれまでのいわゆる「ラブライブ」的展開が予想され、実際従来ファンはよりラブライブらしいと感じているらしい。

 

確かに登場キャラのポジションは初代ラブライブに登場したキャラポジションに寄せているように感じる。なんとなく中心にいる主人公、サポートの手厚い幼馴染、スクールアイドル大好きキャラ、お笑い(?)キャラ、一旦邪魔してくる生徒会長と、性質が分離してたりもするがそれにしても心当たりがありすぎるのではないだろうか。

 

そんな一見代わり映えしないスーパースター!!の一番の特徴は、グループの人数が5人ということ。これまでのシリーズでは必ず9人のスクールアイドルが登場していたが、なんと約半数にしてきた。最初はキャラ考えるのめんどいのかなとかプロモーション上9人は多すぎるのかなとか考えた。実際、9人の部活加入物語を12話でこなしているのは少し無理があったようには思う。ノリで入ったメンバー意外と多かったし。

 

スーパースター!!では従来シリーズに比べて主人公の質の向上が見られる。今作の主人公、澁谷かのんはシリーズ初音楽的素養のある主人公となっている。とある問題はあるが、歌にかなり才能がある描写がなされている。これはダメダメな(もしくは日常に退屈している)主人公がスクールアイドルに感動して頑張るこれまでのラブライブシリーズとは非常に異なっている。

 

この差異が、スクールアイドル活動に対しての姿勢、感情に一定のリアリティを付与したように思う。これまでの主人公は唐突にスクールアイドルに憧れるため、視聴者は正直一旦置いてけぼりになっていた。その後の積極的活動を見て、もっと何かしらあったろ!とも思ってしまう。本作においては、すごく嫌な見方をすればかのんにとってスクールアイドルとは歌うための手段なのだ。彼女の中には「歌を歌いたい」という軸があり、それに向かって努力をしていた下地がある。そこに自分が再び歌えるようになった理由としてスクールアイドルをもってくることで興味を持たせている(すごくしつこい勧誘もあったが)。しかしこれはやり方を間違えると大事故を起こす展開だ。本当に好きでやってる人を馬鹿にすることにつながる可能性があるからだ。この問題を、かのんの真面目で義理堅い性格を押し出すことで解消している。歌を歌いたい自分を救ってくれたスクールアイドル様という感謝と義理、自分で始めたことはやり通そうとする真面目さ、他人を利用することを良しとしない男気で、当初はスクールアイドルが手段であったとしても尊敬尊重し行動するであろことが読み取れる。つまり、元気いっぱい!周りに迷惑かけるけど一直線!はもうウケない、理解が難しいと判断し、現実にいる程度の努力や挫折、真面目さを押し出すことでキャラクターの心の流れに現実味を付与することに成功したように思う。

 

というところまで考えた。まぁそんなこと考えなくてもスーパースター!!はとても面白いししっかりハマっている。キャラクターの行動や考え方も現実的になっているし、ギャグシーンは従来作品より自然に笑える気がする。あと、なんと言っても澁谷かのんちゃんがいろいろとにかく可愛いのでぜひ見てほしい。

虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会を見てみた話

久しぶりにアニメをちゃんと見た。

その名も虹ヶ咲スクールアイドル同好会、かつて一斉を風靡したラブライブシリーズの続編。どうやら、過去作品との繋がりは大してないようなので、過去作をしっかりとは見てない自分もちゃんと理解できた。

 

全体を流れるストーリーというほどのものはなく、各話毎に部員一人一人がスクールアイドルという部活動を通したり通さなかったりして自分の問題に向き合う、青春アニメだった。過去作にあったような部活成立のための勧誘活動はほとんどなく、個々人の悩みにフォーカスしていていた。アイドルユニットでなくソロアイドルの集合体として描かれていたため、ありがちな上手くできない誰かが足を引っ張ってうんぬんカンヌンという展開もなく、すごくライトにまとめた青春ストーリー。

 

 

 

 

 

だと思っていた。

 

 

多数のキャラがほぼ平等に扱われていて、波風も立たずフラットに進行していたはずが10話から一転。

物語進行、賑やかしに徹していた主人公ポジションである、上原歩夢と高咲侑が(噂の11話で)派手にやらかす。

高咲侑はアイドルではないマネージャー的ポジションではあるが、アイドルたちの悩みを解決する主人公。上原歩夢は高咲侑の幼馴染で、スクールアイドルになることに興味を抱くキャラ。メディアではセンターに置かれる、主人公ポジションにいるキャラ。

 

この上原歩夢が曲者だった。一話で高咲侑にスクールアイドルへの関わりを本格化させるキッカケにはなったが、それ以降は特に何もしないのだ。過去作ではこのポジションにいるキャラが中心に立ち回っていたが、本作ではそれを高咲侑が担っている。役割ないじゃん!

 

なんと彼女の役割は、幼馴染が他のスクールアイドルに入れ込むと嫉妬することだった。各話で不穏なリアクションを取ることが多かった彼女が、11話にて爆発した際の発言を素直に受け止めれば、自分を一番に応援してほしい、というもの。恋愛ものであれば普通に起こる展開で、分かりやすい。そしてこの解決方法は、君が一番だよ、とわかってもらうことだ。

 

ところが、この作品では解決方法がどうもそのように捉えられない。とあるキャラから「好きになったことには全力で取り組むべし」と言われて納得、解決したように見えるのだ。これは一体どういうことなのか。

 

この話が分かりにくくなっている原因は、上原歩夢が爆発した原因がめちゃくちゃ分かりにくいこと。表面上他所の女に浮気した幼馴染(女)に当たり散らしたことになっているのだが、彼女の独白から察するに「幼馴染が新しいことに夢中なこと、価値観の変化」プラス「幼馴染のことが一番大切なはずなのに、他にも大切なものができつつある自分の変化」から生じる『幼馴染との距離の変化』に不安を感じることが原因だったようなのだ。他の女に浮気していることはそんなに大きな問題ではなかったのだ。

 

これが何故わかりにくいのか。それは、上原歩夢自身がスクールアイドル活動に対してどう思っているか、この時点まで全く分からないからだ。アニメであればモノローグやそれこそ独り言でキャラクターが何を思っているか分かるものだが、上原歩夢にはこれが全くと言っていいほどなかった。こうなると、不穏な空気になるのは高咲侑が他のアイドルに対して自分が見たこともない態度を取る瞬間のみになるのだ。これでは恋愛的嫉妬が原因で爆発したように見えても仕方がないのである。

 

一番最初の上原歩夢の不穏なリアクションは、中須かすみのアイドルっぽいキャラ付けに対する、高咲侑の「かわい〜」的反応に対するものだった。単なる嫉妬であれば頬を膨らませてやればいいのだが、そうではなく「えぇ…(呆れ)」とか「えぇ!?」みたいな反応をしていた。これは嫉妬というより困惑が強く表れているように思う。この積み重ねであれば、やはり嫉妬という線は薄いように考えられる。(最後のトリガーだった10話中盤のリアクションだけは恋愛感ありすぎるのだが)

 

結局好きになったものは仕方なし、とことん向かうべしと、変化することを受け入れましたオチなんだろうと個人的には推測している。種明かしから解決の展開がやや性急だったのかもしれないが。

 

でも全体的に絵もきれいで、ライブシーンのCGなんかもこんな綺麗にできるの!?と感心した。キャラの思考はかなり現実的で、悩みもいかにも現代的で分かりやすかった。キャラも立ってて見やすいアニメだった。

 

 

ちなみに推しは上原歩夢ちゃんです。

 

 

 

知覚

いわゆる芸能人(youtuber等含む)と一般的なイメージの中のサラリーマンの根本的な違いは何だろうか。基本的にはそれぞれ求められた作業をこなし対価を獲得するという意味では同じことを行っている。雇われと個人事業主とか経済規模とか細かい違いはあるだろうが、大枠で見ればそこは変わらない。では何が大きく違うのか。

 

最も異なることは、認識だろう。おそらく自分の能力を売っているという自覚や自分の役割に対して、サラリーマンの方がしっかり意識できている思う。これは、自分の仕事を評価する人(上司)や評価の対象(仕事の成果)がはっきりしているからだ。評価が理不尽かどうかは置いておくとして、この構造自体に異論はないだろう。そこに自身の人間性が反映されることは(少なくとも形式上は)稀で、会社の中でいかに仕事ができるかに重きが置かれる。会社というのはそれほどシンプルな構造になっている。これは組織の中の誰かが急にいなくなっても、確実に機能するために必要なことだ。

 

一方、芸能人はどうだろう。彼らを評価するのは所属事務所でありスポンサーであり世間であり、それぞれが異なる評価基準を持っている。私はその内情を知っているわけではないが、どれか一つに嫌われてしまえば扱いにくい商品になってしまう。また、不特定多数に顔を晒し続けるという個人情報ガバガバなこともしている。そこだけ見ればかわいそうな存在だが、成功したときに途方もないメリットがあることを考えれば妥当なリスクだろう。しかしこの状態が彼らの仕事に対する認識を鈍らせているように思う。つまり、彼らは自分が何を売っているか、何が求められているのか正しく理解していないのではないか。

 

多くの一般人からすれば、大概の芸能人は必要ないのだ。その役割を担う人がいればいいのだ。顔を出して活動をしているし自身を語る機会があるため機能と人格が同一視されがちになるが、これが視聴者たるこちら側だけならよい。しかし、芸能人本人がそう認識しているとなると話は別だ。確かにその人格や容姿は唯一無二だが、機能として唯一無二な方はほとんどいない。いかに美人で人気がある女優でも、例えばスキャンダル等で失脚してしまえば、その枠に別人が簡単に入り込む。そしてその内存在を忘れ去られてしまう。果たして、この状況は先に述べた一般的な会社と同じ動きではないか。

 

 

 

はてさて、ここ最近は自身が求められている機能を正しく認識せず、あたかも己の人格が認められていると勘違いし、簡単にその機能を手放してしまう芸能人が多く見られる。SNS等の普及により世間との距離が近くなった影響もあるかと思うが、実際にそこにいるのはあなたの人格を愛する友人ではなく、あなたを評価するたくさんの上司なのだ。